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魚沼特使と魚沼談議 その3

ページID:0011613 更新日:2023年3月24日更新 印刷ページ表示

『魚沼市の出身者や関わりの深い方から、魚沼市の魅力を広く全国に紹介してもらうため、市長より委嘱された方々』(魚沼市ホームページより)である魚沼特使。
令和4年9月26日現在30名の方が任命され、魚沼市を全国にアピールするべくご尽力いただいています。
特使の方に、魚沼の魅力や好きなところ、PRしたいところなどをざっくばらんにお伺いました。

魚沼特使 No.29 飯島 幸永氏

魚沼特使 No.29 飯島 幸永氏 

写真家。
昭和41年に旧入広瀬村(芹谷内集落)を取材したことが縁で交流が生まれる。写真を通じて雪国魚沼の歴史、文化の認知度を高めるとともに、訪問客拡大に寄与したいという熱意を持っていいただいている。

 

「この写真集、見たことある?」
と、知人が差し出した写真集。
タイトルは『寒流』(発刊/株式会社彩流社)
「以前、入広瀬にあった芹谷内(せりやち)という集落の、雪国の生活が捉えられていて、とてもいいんだよ。」
その後熱弁は続き、なるほどなるほどと相槌を打つ私。
それから数年後、写真集『寒流』の撮影者であり、著者でもある飯島幸永氏とお話しできる機会をいただき、東京・銀座の個人事務所「ビスカ」でお話をうかがいました。​

 

旧入広瀬村の芹谷内集落を取材されたきっかけを教えてください

私は昭和39年、東京オリンピックの年に東京写真短期大学(現:東京工芸大学)を卒業し、昭和40年から師となる写真家に弟子入りをしました。
オリンピックに沸いた日本ですが、東京だけを見ていてはいけないと感じました。
東京都とは違う、豪雪の地にこそ自分が求めているものがあるのではないかという想いがあり、オリンピックから3年後の昭和41年、23歳の時に師匠から10日間の暇をいただき、2月の入広瀬に単身降り立ちました。
このような時代と土地があったことを撮っておきたい、その気持ちに突き動かされたこの時の経験が、私のプロの原点となっています。

 

昭和41年2月の入広瀬も、相当な雪に見舞われていたと思います

県境を越えると、そこは雪国でした。
入広瀬に土地勘は全くなかったので、まずは村役場に向かい、この辺りで一番雪深い集落はどこかを尋ねたところ、芹谷内という地名を教えてもらいました。
道にあるカンジキの跡をたどれば2~3時間で着くと言われたので、カメラ2台と乾パンの入った袋を二つ持って入りました。
1時間ほど歩いた頃でしょうか、前から男性が歩いて近づいてきました。その男性は今井さんと言い、挨拶もそこそこに無言で私が持っていた荷物を持ち、先に歩いていってくれたのです。
聞いたところ、芹谷内集落内に一つだけあった電話に「これから若いのが向かうから見に行ってくれ」と役場から電話があり、迎えに来てくれたということでした。

芹谷内ではどのように過ごされたのでしょうか

​​芹谷内集落には10軒の家が存在し、一軒一軒にお世話になりながら10日間滞在し、撮影させてもらいました。
冬の時期、若い男性は出稼ぎに出ているので、家の仕事は主に女性の仕事でした。
豪雪の中、手間を惜しまず生きているその姿、生き様を撮ってみたいと、この時は10日間で34本のフィルムを使い果たしました。
その後、夏も含めて足掛け3年芹谷内に通い続け、冬期間雪に閉じ込められながらも力強く生きる雪国の農民の方々の姿を撮らせてもらいました。
魚沼では、山峡の豪雪に生きる様を撮らせてもらいました。昭和44年以降は津軽へ行き、里の雪という厳しい風土の中に生きる女性を中心に撮影させてもらいました。

 

『寒流』に載っている方のエピソードを教えてください

私の印象に残っているのは、こちらのおばあさん(『寒流』130ページ)です。
いつも窓の外に手を合わせていて、何をしているのだろうと思っていました。
今にしてわかったことですが、この方は死を覚悟する中で、煙草と猪口一杯の酒を嗜み、太陽へ感謝と安楽な死を迎えられるよう、毎日手を合わせていたのでした。
「生きるとは何か」を問いかけ、このおばあさんのような生き方・閉じ方があった。大地に生きる人間の強さを映像で残すことができたのも、写真の力だと思います。

 

飯島さんにとっての「写真」とは何でしょうか

私の写真のテーマは「風土と人間」です。
単なる土地の写真ではなく、そこに生きる人の生き様、生き方を撮ってみたい。「本当に生きるとは何か」を常に掲げて撮影しています。
最近、写真の力を感じる嬉しい出来事がありました。
それは、私の写真集を見た方が新聞に感想を投稿してくださり、それを読んだ芹谷内集落出身の方から手紙をいただいたのです。
手紙には、「時が経ち、芹谷内という集落は無くなってしまったけど、写真の中では当時の人々の生活が、生き生きと見てとれて、気持ちが溢れ、感動を呼び起こしている。」とありました。
この手紙を読んだ時、私は感動して胸が熱くなりました。
また、私の写真に写った当時20歳だった女性の方からも手紙をいただき、「どんなことがあっても生きること」を娘へ教え伝えているという話をうかがいました。
これらは写真がつないだ縁。まさに写真の力だと感じます。

 

​​魚沼特使になられた経緯を教えてください

芹谷内集落での経験は、プロとしての私の原点です。
さまざまな方に出会い、助けられたお礼、お返しの意味で魚沼特使を引き受けさせてもらいました。
風土を撮るということは、相手がいることなので、自分勝手なふるまいはできません。
豪雪や厳しい風土に生きる人々の生き様を、作品として残せたらとの思いでここまできましたが、
写真集を通じて手紙を何通もいただき、「一生の宝」だと喜んでもらえたことは私にとっても宝物です。

 

今後の展望をお聞かせください

プロとしての原点である魚沼市で展覧会を開催したいという想いがあります。
写真の中にはその時代が生きています。昔はよかったという話ではなく、例え不便な時代でも、生きるすべを考え切り開いていく。これが大切で、写真展のテーマです。
自然に対してどう生きるか、写真のような原体験がもうできない現代だからこそ、美しい自然と厳しい自然、この二つを持つ魚沼市で作品展を開催する意味があると思います。
出版した作品集『寒流』は芹谷内集落と津軽の雪国を、『暖流』は八重山諸島の亜熱帯風土に暮らす人々を収めました。
写真家は、過去と現代をつなぐ仕事だと思っています。
これからも自分らしく生きていきたいですね。

 

ーありがとう​ございました

 

にこやかに優く語る飯島さんの、写真一枚一枚への想いに感動し、色々と考えさせられるインタビューとなりました。
余談ですが、飯島さんご自身を撮影させていただく際、「どんな写真がいい?」「こうしようか」「ここ​から撮る?」と顔の向きやものの配置など、色々なコツを教えていただいて撮ったところ、自分が撮影したとは思えない仕上がりに!
さすが、と思うと同時に、一枚の写真を収めるためにテーマや想いを込めながら、構図などさまざまなことを瞬時に考え抜くプロの仕事を垣間見ることができました。​