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目黒家住宅の歴史

ページID:0004807 更新日:2023年1月18日更新 印刷ページ表示

目黒家住宅は、寛政9年(1797年)に11代五郎助が建てた割元庄屋(大庄屋職)の役宅をかねた豪農住宅です。豪雪地帯の農家の特徴を備え、近世村役人層の典型的な住宅として貴重な遺構となっています。表の旧会津街道に沿って石垣を築き、冠木門を設けるなど中世武士の館を思わせる屋敷構えです。

主屋は茅葺の寄棟造として桁行16間、梁間6間の堂々たる構えを見せ、正面の表中門は入母屋造とし、懸魚のつく千鳥破風の屋根は役宅に威厳を添えています。隣接する銅板葺、寄棟造の建物は、目黒家最盛期の明治34年(1901年)に建てられた「離れ座敷」です。

邸内に現存する中蔵、新蔵の他、かつては籾蔵、米蔵、みそ蔵、酒蔵、醤油蔵などがあり、今でもその跡をとどめています。また随所に見られる石橋、石段等の石造物も往時をしのばせています。
主屋の構造は上屋と下屋からなり、屋根裏の小屋組は太い丸太を組む叉首組と梁に束を組み重ねる二重梁からなります。この小屋組と太い上屋柱、梁、指鴨居、敷居が茅葺の大屋根を支え、3メートルを越す豪雪に耐えて、創建当時の姿を今日に伝えています。

目黒家は中世武士の系譜をひく豪農です。会津の地で戦国大名の蘆名氏などに仕え、伊達政宗との戦の後、天正18年(1590年)越後魚沼の広瀬郷の地で帰農したと伝えられ、目黒家の初代善右衛門は、江戸時代初期の慶長年間(1610年代)に上条郷15ヶ村の肝煎役を勤めています。

魚沼地方が天領であった元禄年間(1690年代)、目黒家は堀之内組のうち上条郷25ヶ村の庄屋の惣代、中庄屋になっています。魚沼領はたびたび凶作、飢饉に見舞われましたが、目黒家はその時々に救済策を行い、郷中の窮状を救っています。

江戸時代中期の宝暦5年(1755年)、糸魚川藩領須原村の庄屋であった8代五郎助は割元役を命ぜられました。以後代々割元庄屋となり、苗字帯刀を許され、扶持を受け、近郷の割元庄屋とともに糸魚川藩魚沼領23ヶ村の大庄屋職を勤め、明治初年に至っています。
豪農目黒家の経営規模は大正9年(1920年)2郡6ヶ村に及び、農地は165町歩、小作人総数は325人を数えました。

目黒家は地方近代化の推進者として、産業や教育、文化の振興、道路の整備、鉄道の敷設、水力発電所の建設に尽力するなど、多くの功績をのこしました。

文化財指定の経緯

文化財指定の経緯
昭和30年2月9日 新潟県指定文化財の指定 主屋1棟(民俗資料)
昭和49年2月5日 重要文化財(国)指定 主屋、中藏、新蔵(建造物)、棟札2枚、古図1枚、
家作用具買入帳1冊
昭和53年5月31日 重要文化財(国)指定 宅地4513.8平方メートル
平成5年4月20日 重要文化財(国)指定 椽亭、棟札1枚、石動社、
​宅地及び原野10717.8平方メートル